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朝倉義景

『人生の最後に臆病風に吹かれた男 朝倉義景 その3』

絶好の機会を逃がした義景にとって、後は凋落の道しか残っていません。

1573年、盟友の浅井長政が小谷城を織田軍に包囲され、義景に救援を求めてきました。

しかし、相次ぐ戦いに疲弊したことで出陣を拒む者が多く、義景が率いる朝倉勢も士気があがりま

せん。

一乗谷城
it.20100324 一乗谷城 001

また、朝倉にとってしょせん手伝い戦に過ぎず、厭戦気分も広がっていたようです。

そして朝倉勢は小谷城近くに陣を敷きますが、例によって義景は動きません。

織田軍を前に慎重になったのか?

それとも臆病風に吹かれたのでしょうか。

こうしたなか、義景の弱気を見透かした信長が先に動きました。

奇襲によって朝倉方の砦を陥落せしめたのです。

これを見た義景はすっかり臆病となり、織田軍に見つからないよう全軍に撤退を命じたのです。

しかし、信長はお見通しです。

凄まじい追撃を繰り出したことで朝倉勢は壊滅。

義景は命からがら越前に逃げ帰りました。

しかも付き従う者も数える程となり、最後は一族の朝倉景鏡に裏切られて哀れな最期を遂げたとい

います。



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robin 20250620

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朝倉義景

『人生の最後に臆病風に吹かれた男 朝倉義景 その2』

1570年には越前攻め、そして同年には姉川において織田勢と激突しますが、いずれの戦いに

おいても義景は出陣せず、一族や家臣を派遣しています。

これは義景が臆病だったわけではなく、朝倉氏の軍制がそうなっていたに過ぎません。

姉川の戦い
an.姉川の戦い

敦賀や大野などに軍司がいて、彼らが軍事掌握権を持っていたからです。

しかし、姉川の戦いで朝倉軍が敗北を喫すると、家臣に任せていられない.


とばかりに義景じきじきに出陣しました。

これが近江で織田軍と対峙した『志賀の陣』です。

ところが信長の軍勢を見た義景は、なぜか積極的に戦おうとはせずに比叡山に登ってしまいます。

もし果敢に戦っていたら、背後に大坂本願寺という敵を抱える信長は窮地に陥っていたかもしれま

せん。

これも臆病のなせる業だったのでしょうか・・・。

結果的に和睦を受け入れて撤退しています。

さらに武田信玄と共闘して信長を苦しめるも、まもなく雪が降ることを理由に越前に引っこんでし

まいました。

これには信玄も

「戦場を離れて帰国したことに驚いている。信長を滅亡に追い込む好機だというのに、そのような

悠長な構えでは労あるのみで功などない」

と非難しています。

ここにも義景の臆病ぶりが垣間見えるのです




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robin 20250619-1

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朝倉義景

『人生の最後に臆病風に吹かれた男 朝倉義景 その1』

越前において5代にわたって栄華を誇った朝倉氏ですが、その最後の当主となったのが朝倉義景

です。

朝倉義景(1533-1573年)
as.朝倉義景

若い頃は宿老・朝倉宗滴の薫陶を受けつつ覇気ある殿様だったようですが、ある不幸が義景の性

格を変えてしまいました。

それは愛する嫡男・阿君丸の死です。

すっかり意気消沈した義景は、政務にまったく身が入らず、毎日引き籠ってばかり。

そこで主君の身を案じた家臣の勧めで、小少将という美女を側室に迎えました。

また愛王丸という男子も生まれています。

しかし義景は明るく過ごすようになったものの、今度は遊興にうつつを抜かすようになってしまう

のです。

そんな時、朝倉氏と織田氏の関係が険悪になりました。

もともとは両家とも越前に出目を持ちますが、織田信長が上洛を果たし中央を掌握したことで、

義景は反発心を持ったのかも知れません。



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robin 20250619

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六角義治

愚かすぎる六角義治 その2

賢豊は家中きっての重鎮であり、人望の厚い宿老でした。

皆から慕われる器量人を殺したとあっては、いくら主君であろうがそっぽを向かれるのは当然です。

義治は家臣から非難され、ますます人望を失っていきました。

さらに敵である浅井氏に鞍替えする者まで出る始末。

観音寺城模型
ka.観音寺城模型

やがて不満を抱いた家臣たちによって、父もろとも城から追放されてしまったのです。

重臣・蒲生賢秀の斡旋で何とか城に戻るも絶えず家臣の謀反に怯えてばかりだったとか。

ところが義治は起死回生の策を講じるのです。

折しも足利義昭が近江へ逃れていたのですが、三好三人衆から義昭を追放するよう要請を受けてい

ました。

しかも義治を幕府管領に推薦してよいという好条件です。

これに飛びついた義治は義昭主従を追い出すのですが、この愚かな行為が家臣団の怒りを買うこと

になりました。

もはや六角の家督にしがみつくことも許されず、弟・義定に譲ることになります。

それ以降は、すっかり家臣団の言いなりになってしまったとか。

父にも家臣にも頭があがらず、義治は単なるお飾りに過ぎません。

やがて織田信長の上洛に直面するのですが、素直に降伏すれば良いものを、見境なく敵対行動に

出てしまうのです。

ただでさえ臆病の義治はすっかり戦意をなくし、まともに戦うことさえなく逃亡。

ここに名族・六角氏は実質的に滅亡を遂げました。



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robin 20250617

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六角義治

『愚かすぎる六角義治 その1』

戦国時代に近江南部を領した六角氏は中央の幕政に深く関わるなど、実力者として地位を不動な

ものとしていた。

まさしく最強クラスの戦国大名といっても過言ではありません。

観音寺城本丸の石垣
ka.観音寺城本丸石垣

ところが義治が家督をついでから、六角氏は迷走していくのです。

そもそも理由は義治の父にありました。

六角承禎は義治に家督を譲った後も実権を握り続け、事あるごとに口を挟んでいました。

また、野良田の戦いで敗北したことで、義治は苦肉の策として、美濃の斎藤氏と同盟を結ぼう

としたのですが、承禎の反対で反故になってしまいます。

本来なら敗戦の責任者は承禎なのですが、なぜか義治の責任が問われ、謹慎する羽目になって

しまいなってしまいました。

憤懣やるせない義治には、父を排除する程の度胸もありません。

そこで承禎の側近として権勢を振るっていた後藤賢豊の追い落としを狙ったのです。

1563年、家臣の種村三河守から

『承禎と後藤が図って義治を廃嫡しようとしている』

と讒言を受けた義治は、すぐさま行動に移ります。

なんと賢豊を観音寺城に呼び寄せると、有無を言わさず謀殺してしまったのです。

これで父の手足を奪ったことになり、今後は権力を独占できると期待した義治ですが、現実はそ

う甘くありません。



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robin 20250616

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加藤清正 Ⅱ その897

『加藤本家筋の断絶』

次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の

後を追って自刃した。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正

これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。娘の献珠院は忠広の死から6年後に

許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に

嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。

丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。

子孫は5千石相当の大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明

治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。

しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893年 - 1989年、日本人の既婚女性としては理学

博士号取得者の第1号として知られる)の死去により、その本家筋は断絶した。

筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は、山形県を中心に全国各地に散らばっ

ています。


2年を超えて、加藤清正にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

この後は、戦国時代から江戸初期の風俗などについて勉強したいと思います。

ぜひ、お付き合いください。



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robin 20250615




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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加藤清正 Ⅱ その896

『加藤家家中の対立』

加藤清正は新田開発や治水工事の逸話が知られている一方で、朝鮮出兵に対応するための動員体

制が、その後も関ヶ原の戦い・天下普請に対応するために継続され、その結果百姓は度重なる動

員や重税に悩まされて農村は荒廃した。

熊本城(熊本城登城記は「こちら」です。)
熊本城 002-1

また、支城主には大きな権限が与えられ、清正が没して幼少であった忠広が家督を継ぐと幕府が

直接介入して彼らを抑制しようとしたが、その統制も困難になってきた。

それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったとされます。

子孫は、嫡男の光広は飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、

天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年に病死した。

これには自刃説、毒殺説もあります。



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robin 20250614




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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